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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「こうして人は言う。『まことに、正しい人には報いがある。まことにさばく神が地におられる。』」(11)


 神は、悪を見逃しておられるのではありません。悪は悪として裁かれる時が必ず来ます。

 私たちは、悪に心を乱されることなく、惑わされることなく、主の御前で正しいことをひたすら行っていきましょう。

 その正しいこととは、悪を行っている悪人が悔い改めて主に立ち返り、救われるように祈ることです。

 裁くのは、神だけです。私たちは裁く立場に立ってはなりません。それは神の座です。私たちがするべきことは、正しいことです。正しいこととは、愛することです。

 

 特に「力ある者たちよ」(1)とあるように、権威ある者たちのために祈りましょう。国家のリーダー、影響力を持っている権力者のために、その者たちが主を畏れ、主を愛し、主に従うことができますように。公正と正義を行い、不義から離れることができますように。正しく国を治める知恵を与え、その民に平安を与えることができますように。


 私たちは、悪に対して正義をもって、争いには赦しを、憎しみには愛を、絶望には希望ももって対するのです。それが私たちの武器なのです。そして主は必ず、勝利を与えてくださるのです。


 天の父なる神さま

 どうか私たちが、悪に負けることなく、愛と赦しと希望をもって、福音のことばによって勝利することができますように。

 特に権威者、権力者のために、とりなし祈る者たちでありますように。私たちに力を与えてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 

『正しい裁きを』


 私たちの住む、この世を見渡すとこのダビデのように、神の正義は打ち破れて、社会の倫理が神から遠く離れてしまった、義はどこにあるのかと嘆いてします。新聞にはおぞましい事件で満ちていて、この世の力ある者が、本当に神の義にそって人の子たちを公正に裁いているのかと次々に疑問がでてしまいます。この58篇の作者 ダビデもサウル王から逃れながら、このような社会の悪に、主が懲らしめの裁きで打ち砕いてくださいと願っているのです。やがてダビデ自身も姦淫の罪に染まってしまうわけですが、この詩篇の段階では正義感に燃えていたのでしょう。


 しかし、不思議なのは、58篇の初めに、指揮者のために。「滅ぼすな」の調べで、ダビデによる。とある「滅ぼすな」これは57篇も一緒なのですが、この世の不正を裁いて、打ち倒すことを願っているのに、「滅ぼすな」の調べとは全く矛盾している題名のように見えるのです。


 10節「正しい人は、復讐を見て喜び その足を 悪しき者の血で洗う」すざましい

祈りというよりも呪いのように、感じてしまいます。怒りに満ちた呪いのことばであったのでしょう。この世の正義はどこにあるのか、と叫んでいるようです。 私たちも自分の身に、このように社会の倫理が神から遠く離れてしまったと思う経験はありませんか。


 東京の一人暮らしの友人は、自分自身がかつかつの年金生活にも関わらず、ふとしたことがきっかけで知り合った、三人の母子家庭、母親は病気がちで社会福祉を受けておられる家庭を、助けようと、時には重たいからといって米や水を届けたり、お金も多少送ってたりしていたのです。しかしながら、数年後、この家族への市の査定があって、お金の入金があったことが理由で、福祉を打ち切られた上に、今までの公正福祉で支払われたお金の返金を求められてしまいました。この友人は、なんとか助けようとした行為が裏目に出てしまって、悲しむと同時に、社会が公正を欠いていると怒っています。


 ダビデの怒りは、自分自身の命にも関わるものでしたので、比較することはできませんが、神に向かって、この世の不正を裁いてくださいと訴えているわけですが、やはり、気になるのは「滅ぼすな」の一言ですね。


 もしかしたら、最後の節11節「まことに 正しい人には報いがある。まことに さばく神が地におられる。」とまだ目の前の社会の悪は裁かれているわけではなかったのに、自分の心では、すでに世をさばく神が地におられることを自覚したのかもしれません。


祈り


私たちも、この現世においては、不正がはびこり、ほんとうに義によっての公正な裁きができるのだろうかと思ってしまうことが多くなるこの頃ですが、自分もその罪人の一人であって、主なる神がその罪を御子イエスに負わせて、今では私たちと共におられることに感謝が捧げられますように導きください。 アーメン

文:森 宗孝


 

『神に信頼を』


 この詩篇は嘆きの詩、死の恐れの中で、私は神に信頼しています。それゆえ、今、自分が経験している患難、それも自分の命を失いそうになっていても、これまで神によって、自分のの足のつまずきから救い出してくださったことを思い起こして、このような試練を受けても、決して何も恐れませんと告白しています。


 何度も「神に信頼する」と繰り返されているのですが、自分の周りの敵からは、一日中、自分を痛めつけるはかりごとをして、待ち伏せている、命が狙われている状況なのです。ダビデがダビデなのは、このい神への信頼が、彼の骨の髄まで流れていて、人間としてつまずきをするけれども、どのような状況の中でも、神への信仰が常に土台にあった人という点ではないかと思うのです。


 果たして、自分自身が四面楚歌の状態で、自分の力ではどうしようもない、しかも助けてくれそうな人もいない。この事態から救い出してくれそうな要因は、全く見えずに、希望がない。暗闇に沈んでゆくように、まるで逆らっても渦のなかに引っ張られるようにしてゆく、それでもその時に、主を信頼しますと言えるかどうか。正直なところ、そんな自信がない、哀れな自分を見るわけです。


 そのようか危機的状態の中にいるダビデは、まるで、危機は去って、すでに助け出されたように、最後の節で、感謝しているのです。このような心底から神を信頼することができるでしょうか

13節「まことに あなたは救い出してくださいました。私のいのちを死から。私の足をつまずきから。 私がいのちの光のうちに 神の御前を歩むために。」


 自分はまだ患難の真っ只中にいるのに、すでに助け出されたとして感謝を捧げる、これが恐らく、本物の神を信頼することなのでしょう。


祈り

 自分にはこれほどの、神への信頼、信仰が育っておりません、どうか御霊の助けによって、どのような患難に襲われようとも、すでに救い出してくださった主がおられると、感謝をもって祈ることができる者へと育ててください、主よ アーメン

文: 森 宗孝


 
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