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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 詩篇73篇はアサフによって書かれた詩である。彼はダビデによって神殿聖歌隊の指導者の一人として任命されました。さらに彼は預言する者でもあったと言われています。


 彼は、悪者が栄えて祝福されている現実をみてつまずきを覚えています。あまりにも理不尽なことが多すぎるのを見て聖所に行って祈りました。今は、どんなに栄えてもこれが決して長続きはしないこと、そして彼らの最期は神によって滅ぼされるということを主によって悟らせてくださったのである。


 私たちの周りで日々起こっていることを見る思いです。たしかにこの世は理不尽なことがありすぎてクリスチャンとしての信仰が揺らぐことが多々にあります。神からの祝福は悪者であろうとクリスチャンであろうと平等にあたえられます。しかし、神を信じない者、いや、この祝福が神からきたものであるということを悟り、悔い改め、感謝の心を知らない人の最期は滅びに至るということです。


 本当の祝福とは、決して物質的に豊かになることではなく、神の近くにいることなのだという確信をもつことだと作者は語っています。私は、弱い信仰の者で、未だ物質的に豊かになるということから抜け出ていません。でも、最近は物を求める時には、イエスさまだったらどう思われるだろうかと心の中で祈ることができるようになりました。そしたら、不思議と必ず悟らせてくださいます。必要であるものは与えられますが、必要でないものは決して与えられません。時には、一番必要とするものが神さまの目からみると不必要なものであるということです。自分の欲からでてきたものは決して与えられないということです。



 愛する天の父なる神さま。あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日の詩篇73篇の御言葉を心から感謝します。たとえ神を信じない者が栄えて、祝福されても彼らの最期は滅びにいたります。私たちの信仰も彼らをみて揺るがされることが多々にあります。でも、そのような時でも本当の祝福とはあなたと日々交わることだということを覚えて恐れずに前進することができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

 この詩篇は、王を称える歌です。王制とは、すべての権威が王にあるということです。王制の場合、王の善し悪しで国の命運が左右されます。善い王の時には国民を平安を得て、悪い王の時には国民は苦しみます。

 善い王とは、どのような王でしょうか。


「彼が義をもって、あなたの民を裁きますように。公正をもって、あなたの苦しむ民を。」(2)

「それは、王が、叫び求める貧しい者をや、助ける人のいない苦しむ者を救い出すからです。王は、弱い者や貧しい者をあわれみ、貧しい者たちのいのちを救います。」(12,13)


 善い王とは、苦しむ者、貧しい者、弱い者たちをあわれみ、助けるために、正義と公正をもって国を治める者です。

 その国の成熟度とは、貧しい者や弱い者が安心して暮らせる世の中であるかどうかで計られます。国のGDPやインフラ整備、教育、医療などなどでは、必ずしもその国の成熟度は計れません。一部の者だけが恩恵を受け、一部の者たちが差別され虐げられているのであれば、その国は実はとても未熟であるということです。

 

 イエスは、神の国の福音を宣べ伝えました。イエスが治める神の国が到来したのです。イエスは、神の国の王です。このお方は愛と義をもってご自身の国を治めます。その支配原理は「互いに愛し合いなさい」です。これが神の国の憲法です。


 私たちは、善い王であるイエス・キリストの民です。この神の国の福音を宣べ伝え、神の国をこの地上に拡げていきましょう。

  

 天の父なる神さま

 イエスさま、あなたは神の国の王です。私たちは神の国の民でありことを感謝します。私たちの真の国籍は天にあります。

 どうか、あなたの治める神の国をこの地上に拡げていくために、私たちを用いてください。

  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 

『主に生まれた時から抱かれる』


 この詩人の神への信仰は、実に力強い、若い日から主が自分の拠り所で、避けどころの岩だと言うのです。しかも自分の生まれた時から、主に抱かれていたと告白しています。 そして15節「私の口は絶えず語り告げます、あなたの義と救いとを。そのすべてを私は知っておりませんが。」と正直にへりくだっておられるのです。


 それに比べると、自分自身は年をとってから、主イエスと出会ったので、とてもこの詩人のような信仰には及びませんが、主が救いの避け所であることだけは、同感しております。そして9節「年老いたときも 私を見放さないでください。私の力が衰え果てても 見捨てないでください」この詩人も、年老いていて、晩年になって自分の人生を振り返っているのではないかと思いました。


 この詩人は、晩年になってから命の危険にあったのでしょうか。11節「彼らは言っています。『神は彼を見捨てたのだ。追いかけて彼を捕えよ。救い出す者はいないから。』どうやらこの詩人もダビデのように、追い立てられる経験をしたようですが、彼の主に対する信頼は変わっていません。20節「あなたは私を多くの苦難とわざわいとにあわせられましたが 私を再び生き返らせ 地の深みから 再び引き上げてくださいます。」まるで主イエスが約束された、私たちの聖霊による新生と身体の復活を預言しているような、その約束をすでに頂いた詩人であったようです。


 22節になると、神を琴でほめたたえるとありますから、やはりこれはダビデが書いたとも思えますね。あなたの義を語り告げますと声高らかに私たちも宣言しようではありませんか。


祈り

主は私の苦しみの中にあっても、かならず振り向いて私を慰めてくださる方であることに感謝いたします。主を賛美します、そしてどうか主の義を語り続ける者となりますように アーメン 

文:森 宗孝


 
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