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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「私たちの救いの神よ 私たちを助けてください。御名の栄光のために。私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。御名のゆえに。」(9)


 この詩篇は、バビロン捕囚が背景にあると思われます。廃墟とされたエルサレムに心を痛め、敵の国の嘲りに嘆いているのです。

 そしてこの状況は、自らの罪に対する神の裁きであることも承知しているのです。ただ、神の民を裁くのに異邦人のバビロンを用いるということには納得がいきません。それゆえに、詩人は敵に「激しい憤りを注いでください」(6)と歎願するのです。


 さらに詩人は、「御名の栄光のために」と主に訴えます。神の選びの民がこのまま敵の物笑いにされていては、神ご自身の名誉にかかわるということです。自分たちが嘲られるならまだしも、主の御名まであざけられてはならないと、詩人はそこに訴えるのです。


 私たちの祈りにも「御名の栄光のために」という祈りのことばがあります。主を信じる者が善い人生を歩むことは、御名の栄光を現わすことになります。私のためではなく、御名の栄光のために、私たちに善くしてくださいという祈りです。

 私たちクリスチャンの言動が、御名の栄光に泥を塗ってしまうことがありませんように。逆に、私たちを見た人が「神さまってすごいな!」と思ってもらえるような者でありますように。それは決して聖人君主のようになることではないと思います。人間としての当たり前の弱さを持ちながら、それでもなお赦され、愛されている自分を生きることが、御名の栄光を現わすことになるのだと思います。


 天の父なる神さま

 私たちの存在、言動のすべてが「御名の栄光」を現わすものでありますように。主は今も生きておられる、この真理が光を放ちますように。どうぞ私たちをいよいよ主の善いもので満たしてください。

  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン                                        文:関真士


 

『全き心で牧する主』


 イスラエルの民は、強情で頑なな民、奴隷から解放されても、荒野で神に逆らって、神に忠実でなかった、神のおしえに従って歩まずに、神の数々のみわざを忘れてしまったとこの詩篇の作者は繰り返し語っている。


 荒野の40年にもわたる生活の中で、確かに主は幕屋に臨在されていて、14節「昼は雲で彼らを導かれた。夜は、夜通し炎の光で」荒野の昼間の激しい高熱から雲となって彼らを守り、夜は夜で、野獣や他の異邦人部族が襲ってこないように、光となってイスラエルの民を守られたとあります。食べ物がないと不平をいう彼らに、マナをあたえ、岩から水を湧き出させ、肉がないと不平を言うと、うずらを天から降らせて、彼らは十分に食べ満ち足りたとあります。


 神はあわれみ深く、彼らの咎を赦して滅ぼさなかったのです。しかし、彼らは、いと高き神を試み、神に逆らい そのさとしを守らなかった。偶像を刻んで、神の怒りを起こさせたために、彼らは敵の手に引き渡され次々に剣に倒れてしまいます。


 私たちも、いままでの生き方を思い起こすと、恵みの神の手をふりほどいて、自分の思うことまっしぐらに進んでしまい、神のことなど思いもかけなかった、そのような経験を持っていないでしょうか。神に対して、逆らっていたというか、無視していたといったほうが良いのかもしれません。しかしそのような私をも、神は全きこころで牧してくださり、ご自分の手元に引き寄せてくださる神であることに感謝いたします。


 主は、野で羊飼いをしていたダビデを選んで、ご自分の民イスラエルをい牧するようにされたとあります。羊飼いのない羊のようであった、私をもみことばで牧してくださる、全き心の主に導かれる喜びを分かち合いましょう。


祈り

私たちは、主に逆らって、そのさとしを守らなかったイスラエルの民をも、主がなんとか導かれようとされた歴史を振り返りながら、私たちも同様に愛されて、恵みを注いで下さる主に感謝いたします。アーメン 

文:森 宗孝


 

『あなたの道は聖です。』


 主イエスはガリラヤ湖の上を歩いて舟にいる弟子達に近づいて「わたしだ。恐れることはない」と言われました。私たちの知識、科学的な理解では水の上を歩くことはあり得ないことですが。この詩篇の19節「あなたの道は 海の中。その通り道は大水の中。あなたの足跡を見た者はいませんでした。」と私たちの常識では、考えられない創造主としての力を表しています。


 この19節は、恐らく直接的には、エジプトの奴隷であったイスラエル民族を、紅海を分け、その中を歩かせて救いだしたことを示しているのですが、主イエスのみわざをも、思い浮かばせます。11節「私は、主のみわざを思い起こします。」


 この世の宗教の根底には、人が神の助けを求めることが土台になっていると思います。人は苦難の時に神の助けを求めて、手を伸ばすのです。苦しい時の神頼みが中心になっているのではないでしょうか。しかしながら、キリスト教の聖書にありますのは、神の方から人を助けようとして手を伸ばされた歴史が描かれているのです。


 ですから、この詩の作者は、ユダヤ人の歴史を思い起こして、15節「あなたが御腕をもって贖われた。ご自分の民 ヤコブとヨセフの子らを」とすでに神の救い、みわざを思い出して、確かにあの時に助けて下さった、そのような主であられることを確信するのです。


 祈り

私たちが弱り果てた時に、主がすでに信じる者を救い出したことを思い起こしましょう。私たちを購ってくださる主は、生きておられて、私たちのうちに住んでくださっていることを、確認し、感謝致します。 アーメン 

文:森 宗孝


 
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