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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『我らの神』


1. 神は、神の会議の中に立ち神々のただなかでさばきを下す。

2. いつまで お前たちは不正をもってさばき悪しき者たちの味方をするのか。セラ

 弱い者と貧しい者とみなしごのためにさばき苦しむ者と乏しい者の正しさを認めよ。

3. 弱い者と貧しい者を助け出し悪しき者たちから救い出せ。

4. 彼らは知らない。また 悟らない。彼らは暗闇の中を歩き回る。地の基はことごとく揺  らいでいる。


 神様が会議をもつ?と不思議に思い色々な解説を読んでみる。


 すると82篇は神様が「神々」と呼ばれる地上の支配者や権力者をさばく様子が描かれていることがうかがえる。詩人は神が不義を行う者たちを裁き、正しい裁きを求めることを祈る。この詩は、権力者の責任と神様の公正な裁きを強調している。


 ここで権威と権力の違いを明確にしておきたいと思う。

権威とは尊敬や信頼を基盤とした影響力。イエス様がまさに権威者といえよう。


 権力とは、強制や支配を基盤とした影響力。神から与えられた高い社会的地位にある人々。今でいう裁判官や大統領などが権力者であろう。


 私は今まで、良い権力者の下で働いてこられたのはひとえに神様の恵みがあったからこそであろう。数年前まで、本当に責任をよくわきまえた権力者たちが上司で、どれだけ大きな恵みをもらっていたのかが今になってわかる。


 ちなみに、「かみ」と読む漢字は25もあるという。「我らの神」、日本では、「お上」、越前の「守」などである。牧師先生が「おかみさん」というのもあると、笑ったものだ。


天の父なる我らの神よ、

この世は不条理に満ちています。あなたの御業が公正になされますように。そして我らの責任の一つである宣教。あなたの言葉をきちんとより多くの人々に伝えられるよう、私たちを備えて下さい。私たちが頂いている恵みをあなたへの栄光として捧げることが出来ますように、日々導いて下さい。御子イエスキリストの名により祈ります。アーメン


文: マッカーター政子


 

「われらの力であられる神に喜び歌え。」で始まる詩篇81篇を読んだ時、私たちが毎日曜日礼拝に出席して経験することと並行しているなあと感じました。皆の心が喜びに満たされ、心の底から神への感謝の賛美から始まり、次に牧師先生を通して神のみ心が「まだ知らなかったことば」、メッセージとして語られ、そして最後に皆で神の祝福で満たされたことを共に確信します。


 ここで「まだ知らなかったことばを聞いた」という句に続く内容は、旧約聖書を通してイスラエルの民には昔からいつも語られ、よく知られていたことばだと思います。では何故「まだ知らなかった」と言うのか考えてみましょう。それは、私たちが以前何度も読んだことのある聖書の箇所を読む時、また礼拝で同じ様なテーマのメッセージを聞く時、その度に、聖霊に導かれた新しい感覚で、以前気が付かなった新しい意味を発見して吸収することなのかなと思わされます。それだけ主のみことばは底まで掘り尽くせない無限に深い意味を持つものなのだと示されます。そして昨日曜礼拝で牧師先生が引用された「……父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)を思い起こします。


 この詩篇においても、私たちの神は無限に寛大なお方であることが示されています。まるで親雀が、その巣に大きな口を開けている子雀たちにエサを与えるように、神はイスラエルの民に、「あなたの口を大きくあけよ。わたしがそれを満たそう。」と言われました。しかし彼らは神の声を聞かず、神に従わなかったのです。それで神はそのような民を「おもんぱかりのままに歩か」されました。われわれ人間だったら「もうお手上げだ。勝手にしろ。」といったところでしょう。しかしそれでも神はイスラエルの民に「最良の小麦」と「蜜」で満ち足らせようと約束されているのです。


 最後に興味あることをひとつ。旧約には23,145節、新約には7,957節、合計31,102節あります。その真ん中である15,551節と15,552節にあるのがこの詩篇81篇の9節と10節だそうです。「あなたのうちに、ほかの神があってはならない。…………わたしが、あなたの神、主である。」まことの神を神として愛しなさいということです。バックストンという明治時代日本への宣教師は、「聖書の大意はここにある」と言ったそうです。

 


 愛する天のお父さま、あなたはなんと寛大なお方でしょう。私たちはあなたのおきての通りに生きて、清いものでありたいと願いながらも、往々にして無意識のうちに、あなたの声を聞こうとせず、あなたに従うことを拒んだりします。そのような私たちですけれども、身勝手に大きく口を開けてあなたの祝福を待っています。それでも主よあなたは、まるでいたずらっ子の父親のように、私たちを愛し理解して寛大に、私たちにはなくてはならないあなたの祝福を与えてくださいます。感謝なことです。God Is Good All The Time. アーメン


 

「私たちを元に戻し

 御顔を照り輝かせてください。

 そうすれば 私たちは救われます。」3節、7節、19節(抜粋)


 詩篇80篇では上の御言葉が三度も繰り返し語られているところに目が留まりました。これを書いた作者は、国としての回復以上に、神との交わりの回復を求め、神の御顔が輝くように切に求めていたと言われています。


 神との交わりの回復を求めることは、国としての回復以上にとても重要なことであることが示されます。神との交わりの回復を求めることは、私たちにも言えることであります。私たちが自分の罪のために試練にあった時こそ、悔い改めて、神との交わりの回復をしていくことだと思います。そうすれば、神は御顔を照り輝かせてくださります。


 神との交わりの回復を求めることを思った時に、人と人との交わりが壊れた時にも言えることではないかと言う事が示されました。交わりの回復を求めていかなければお互いが傷ついたままの状態になります。その時こそ、神に悔い改めて祈り、回復を求めることです。それは、愛の修復につながっていくことだと思います。神との交わりの回復がとても重要であるように、私たち人と人との交わりの回復もとても大切なことだと思います。なぜなら、私たちは、神さまから、人を愛するために、人から愛されるために、この世に生を与えられたからです。私たちが人を愛し、人に愛された時にそこに、神さまの御顔が照り輝かせていただけるものだと思います。


 ハレルヤ!主の御名をほめたたえます。私たちは、どのようなことがあってもあなたとの交わりを求めていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 
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