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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『私たちを生き返らせ』

 

 この85篇には、ドキッとする言葉がある、6節「あなたは 帰って来て 私たちを生かしてくださらないのですか。あなたの民が あなたにあって喜ぶために。」なんだか、主イエスのことを願っているように見えます。そしてあなたの恵みを、あなたの救いをお与え下さいというのです。そうして10節「恵みとまことは ともに会い 義と平和は口づけします。」なんとも意味深いことばですね。そして義は天から見下ろします。 義は主の足跡を道とします。と義について語っています。


 新約聖書にも義について、色々と書かれていますが、もともと義という言葉は、距離を表す言葉だそうです。そして神と最短距離、しかも真っ直ぐなことが義という言葉の意味だそうです。 自分はそれで、十字架のタテ軸を連想しました。天と地が繋がる最短距離ではないでしょうか。ヨハネの福音書16章10節「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」ここでは、義とは、全く罪の無い、主イエスが私たちの罪を負って父なる神の御前に行くこと、そうしてそこで赦しを得て神との関係が、回復されて真っ直ぐになることと理解したのです。


 そうして、平和とは、この世の全ての人に伸ばされた主の手である、十字架のヨコ棒ではないかとも思ったのです。それは主イエスの恵みです、十字架にかかられたのは、まことである主イエス、ですから恵みとまことは十字架の上で会った、そして主の義(タテ軸)と平和の御腕(ヨコ棒)は十字架で口づけしているというイメージが、この詩篇85篇にはあるのだと思います。2節「あなたは 御民の咎を担い すべての罪を おおってくださいます。」まさに十字架のイエスですね


祈り

主イエスは詩篇を愛されました、実にここには主イエスが描かれているのですね。そのような詩篇の学びに心から感謝いたします。アーメン 

文:森 宗孝


 

『主の住まいはうるわしい』


 主の住まいについては、いくつかの聖句があります。

コリント第二5章1節「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。

ヨハネの福音書14章2〜3節「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたの場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。


 私たちを待つ天の住まいは、どのような住まいなのかと自分は想像しました。しかし、一旦は天の住まいが与えられるものの、ヨハネの黙示録21章には、聖なる都、エルサレムが天から降ってくる様子もありますから、主の祈りにありますように、”み国を来らせたまえ”と、やがてはこの地上に永遠のみ国が神の御手によって降ってくるのです。


 さて、ここからは自分の勝手な想像で、聖書にはありませんが、この地上の、み国に住む前に行く天の住まい、私たちが、霊的な身体を持つと、3次元の世界の法則には縛られませんから、創造主たる神が造られた宇宙の、さまざまな惑星や星座を尋ねることができるのではないか、何億光年と離れていても、時間にしばれれずに、光速度の何百倍ものスピードで、オリオン座を尋ねたり、もしかしたら別の惑星に住む生き物を見たりすることができるのではないか、とStar Trexの大ファンである自分は想像するのです。


 もしかしたら、逆に死後の世界では、このように自由に宇宙を行き来するようなことではなくて、まるで夜に眠って夢を見ているような状態なのかもしれません。そして大声で主イエスが声をかけて下さって ”森 宗孝 起きなさい”と言われると、眠りからさめて、永遠の身体のなかで起き上がるのかもしれません。


 どちらにしても、主の住まいには、喜び、愛、信頼、栄光、希望が満ち溢れていて、たった1日だけ過ごしても、地上の千日にまさるとこの詩篇の作者は、描いていることは、事実であると確信しております。


祈り

どうか主イエスが、私たちの手を持って引き上げてくださり、それぞれが微笑みをもって主の庭に行くことに感謝致します。 アーメン 

文:森 宗孝


 

「神よ 沈黙していないでください。

 黙っていないでください。

 神よ 黙り続けないでください。」1節


 詩篇83篇は、イスラエルの国が周辺諸国の軍事同盟によって脅かされていた時期に作られたものだと言われています。詩人は、国の危機にある状況においても主に祈ったのです。1節の御言葉は詩人の切なる主への祈りです。


 イスラエルを滅ぼそうとしている周辺諸国というのは、エドム・イシュマエル・モアブ・ハガル・ゲバル・アンモン・アマレク・ペリシテ・ツロ・アッシリアです。たった一つの国をこのような多くの諸国が滅ぼそうとしているのです。誰がみても勝ち目はありません。イスラエルの逃げ場はどこにあるのでしょうかと思わされます。そこはどこかというと、軍隊よりもずっと強いお方がおられる天の上しかないと解釈者は語っています。


 1節の御言葉を読んでいて以前に「沈黙」という遠藤周作の原作によるアメリカの歴史ドラマ映画が思い起こされました。日本でのクリスチャン迫害、踏み絵を行うことができない人々を処刑していくという内容でした。ポルトガル人宣教師達を守るために苦しむ信者達を見て1人の宣教師であるロドリゴは苦悩するのである。その時に、彼の口から出たことが詩篇の作者の祈りと重なった思いがした。


「なぜ神は我々にこんなにも苦しい試練を与えながら、沈黙したままなのか?」


 主なる神は、沈黙し続けることがあります。でも、それは決して私たちを見放しておられるわけではないです。神の沈黙は大切なことを導き出す「時」であり、その中で自分自身の信仰を見つめ直すことができると、ある牧師は語られています。ちなみに、「沈黙」の作家である遠藤周作さんが伝えたかったのは、「弱い人」だと言われています。



 愛する天の父なる神様。あなたの御名をほめたたえます。私たちは苦難のなかで祈ってもあなたからの応答がない時が多々にあります。そのような時には、自分の弱さを大胆に認め、悔い改めて、御前にでていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 
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