top of page

新型コロナウィルスの流行に際して、関牧師からのメッセージ

新型コロナウィルスの流行に際して


 世界中が不安と恐れに覆われる中、私たちは、どのようにこの事を受け止めて歩んでいったらいいのでしょうか。ホノルル・キリスト教会の88年の歴史の中で、戦争時以外で、礼拝が閉鎖されたのは初めてです。しかも世界的な規模で、礼拝が閉鎖されている状況は、確かに異常です。 


 ウィルスは、目に見えないということが、不安を増大させているように思えます。どこにあるか、誰が感染しているのか...が見えないからです。でも、私たちは、それがあると信じて恐れています。ならば、目に見えない神を信じ、信頼することも出来るはずです。


 このような非日常的な出来事の中でも「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(イザヤ41:10)と語られる神がおられます。この神は、暗闇の中に差し込む一条の月光のように、荒れ狂う海の中でも揺るがない堅固な岩のように、私たちの心に平安と希望を与えてくれます。


「祈り」~心を注ぎ出す祈り~


 私のたましいよ、黙ってただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。神こそわが岩わが救いわがやぐら。私は揺るがされることがない。私の救いと栄光はただ神にある。私の力の岩と避け所は神のうちにある。民よ、どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。 詩篇 62篇 5〜8節


  もし、私たちに「祈り」が与えられていなかったら、どうなるでしょうか。「祈り」がないということは、祈る対象がないということ、つまり「祈りがないという事は、神がいないという事」です。


 しかし、私たちは、祈るのです。なぜなら、神が共におられるからです。祈りを与え、祈りを聴いてくださる神が共におられるのです。このような時にこそ、祈れることの恵みを実感します。

 
 それでは私たちは、このような状況の中で、どう祈ったらよいのでしょうか。それは、「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。」という祈りです。

 例えば、平安にしてくださいと祈るよりは、不安なんです、と祈ることです。信仰を強くしてくださいと祈るよりは、信じられないのです、と祈ることです。今自分が感じていることを、そのまま表現することが、心を注ぎ出す祈りなのです。


 ルカの福音書8章22節~25節には、嵐の中の舟が描かれています。その沈みそうな舟の中で、弟子たちは力尽き果てています。彼らはイエスに「私たちは、死んでしまいます」と訴えました。弟子たちには、平安はありません。信仰の灯も嵐と共に吹っ飛んでしまったようです。恐れと不安に満ちていました。だからこそ、イエスに助けを求めたのです。この弟子たちの叫びにイエスは応えてくださって、嵐を静められました。


 新型コロナウィルスの流行という状況の中で、すでに平安の中にある方は、その平安の中に憩い、主を賛美していきましょう。


 しかし、もし不安や恐れの中にあるのなら、それは、あなたの信仰が足りないとか弱いということではありません。不安や恐れにあるなら、だからこそ、主に心を注ぎ出しましょう。主に向かって、あなたの心のままを表現するのです。


 そして、この詩篇の御言葉を、一言一言味わうようにして、ゆっくり声に出して読んでみましょう。噛みしめるように、何度も何度も読んでみましょう。主は、私たちが祈ったから現れてくださるのではありません。祈る前から主が共におられるから、主に祈ることができるのです。


 主イエス・キリストの御名によって、私たちの天の父に心を注ぎ出して祈りましょう。


「臨在」~すべての道で~


    心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主は、あなたの歩み道をまっすぐにされる。(箴言3:5,6)


 文字通り「行く道すべて」に主はおられるのです。上る道にも下る道にも。前に向かう道にも後ろに向かう道にも。喜びの道にも嘆きの道にも...。すべての道です。


 この状況の中で、実際に生活に影響が出ている方も多いでしょう。物資や食料の不足、景気の減退、株価の下落、倒産、解雇、レイオフ...。

 思わず「なぜ?」と神に問いたくなる心境にもなります。そのような中で、目の前に起こっている状況、出来事に目を向けて「なぜ?」と問うても答えはないでしょう。


 だからと言って、置かれている状況から目をそらして現実逃避しても何も解決はないでしょう。

 この現実の中に身を置きながらも、しかし、私たちがどこに目を向けるかで見える光景がまったく違ってきます。大切なのは、自分の想いの方向です。

 

 同じ状況にあっても、ある人は平安で、ある人はパニックになります。それは、心の想いをどこに向けているかの違いです。
 
 聖書には、「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」(1コリント3:16)とあります。
 
 自分の想いを、内なる御霊に向けて行くのです。外側の状況ではなく、内におられる御霊に心を向けるのです。

 

 私たちの歩んでいる道は、イエスが共におられる道なのです。いえ、もっと言うと、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)とあるように、イエスこそ道なのです。


 「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。」とは、今自分が歩んでいる道に、たとえそれがどんな道であったとしても、その道にも主がおられるということ、イエスこそ道なのだということを知ることなのです。


 御言葉に「わたしの臨在が共に行き、あなたを休ませる。」(出エジプト33;14)とあります。主の臨在は、今もあなたの内にあるのです。


 この主に拠り頼むとき、私たちの心は「まっすぐ」にされる、つまり平安なのです。


「一致」 ~心を寄せ合う~


 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に求めなさい。(エペソ4:2,3)


 私たちは、一時的ではありますが、離れ離れの場所に置かれます。いかに一つの場所で、共に賛美し、共に「私たちは一つを」を歌い、共に御言葉を聴けることが、どれほどの恵みであるかに改めて気づかされます。


 しかし、場所が離れたからと言って、主にある私たちのつながりが切れるわけではありません。キリストの教会がなくなるわけではありません。むしろ一つの場所に集まれないからこそ、私たちは場所や建物で繋がっているのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって一つであることに気づかされます。
離れたからこそ、近いことが分かります。場所が違うからこそ、同じであることが分かります。見えないからこそ、見えるようになります。


 そうです、私たちは、御霊によって一つなのです。
今でこそ、インターネットがありますが、もしなかったらどうなるのでしょうか。それでも、私たちは、主に在って一つなのです。聖霊が、私たちを一つにしてくださるのです。


 ですから私たちは、場所は離れていても、心を寄せ合い、祈り合い、励まし合いましょう。苦難の中にある兄弟姉妹のことを覚え、またハワイのこと、日本のこと、アメリカのこと...、とりなしの祈りに励みましょう。


 最後に、このような非日常的な出来事が起こっている時こそ、日常を大切にしましょう。出来る限り、普段の生活を心がけましょう。そして、主との交わりを欠かさず、祈り深く、日々過ごしましょう。
この問題が終息したとき、どんな恵みを得たか、何を学んだか、どんなことに気づかされたかを分かち合う時を持ちましょう。
 
 「みよ、わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいます。」(マタイ28:20)


                     ホノルル・キリスト教会 牧師 関真士

​PDFアイコンをクリックするとダウンロードできます。

bottom of page