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4月23日

2024年4月23日 ルカの福音書2章

『シメオンとアンナ』

 幼きイエスの様子を語っているのはルカの福音書だけかと思っていたが、トマスによるイエスの幼時物語という聖書外典に出会った。これは私達の聖書にも、カソリックの聖書にも含まれていない文献で、泥をこねて12羽のスズメを作り、それを飛ばしたというような記述もあるのです。しかし霊に満たされ、信頼に足りる書簡と初代教会に厳選されたのは、このルカの福音書だけで、ここに幼いイエスの本当の様子を垣間見ることができます。

 エルサレムに生後8日目に、割礼をほどこす日となった、この時点では未だ東方の博士たちは宝物を持って両親達に会いに来ていなかったようです、なぜなら、この時に両親が精一杯できる事は、貧しい者が捧げる山鳩か家鳩を捧げることしかできなかった様子なのです。

 そのような貧しい姿のマリアとヨセフに抱かれたイエスを見るなり、まずエルサレムでメシアを待ち望んできた、シメオンが幼子イエスに気がつきます。32節「異邦人を照らす啓示の光、御民イエスらえるの栄光を。」と祝福されています。果たして、私たちはその場にいたとしたら、幼子イエスに気が付いていただろうか? 

 シメオンだけでなく、老女預言者アンナもメシアである幼子イエスに気付きます。彼女の預言もまた凄い。母マリアに向かって、36節「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」この預言通りに、十字架にかけられた息子イエスの姿を見て、母マリアは心が刺し貫かれた思いがした事でしょう。シメオンもアンナも、それぞれが、この貧しい大工夫婦に抱かれている、主イエスの十字架を無意識の中で見ていたのかもしれません。それで、きっとこのような預言の言葉を伝えたのでしょう。

 自分達もエルサレムに行った時に、ちょうど成人式(バルミツバ)12歳の誕生日を祝う家族に出会いました。音楽隊を雇って、家族と親族が一緒になって、踊るようにして今は神殿がないので、嘆きの壁のところまで踊りながら祝う行事が今でも続いていました。大勢の人数で喋りながら、笑いながら、きっと主イエスの両親も練り歩いてエルサレムに行き、帰りになってイエスが居ないのに気が付いたのでしょうね。イエスは宮で教師たちに質問したりしていたとあります。イエスが知恵が増し加わり、背丈も伸びていった、主イエスの幼年時代が神殿のイメージと共に、質問を続ける幼子イエスを思い浮かべられる2章でした。

祈り

私たちの周りにも、主イエスが心から愛された多くの幼子がおります、境遇によって子供達は、その性格も形づけられて行くことになりますが、どうか貧しい生活によって、心も貧しくなりませんように、手助けを必要とされている子たちに、私たちの手を伸ばすことができますように、すべてを感謝いたします。   

文:森 宗孝

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