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3月26日

2024年3月26日 マルコの福音者15章

『十字架でのことば』

 主イエスは、暴動で人殺しをしたバラバの代わりに十字架にかけられました。バラバという名前は「バル・アッパー」これは父の子と言う意味です。つまり人間の父の子供に代わって、神の子イエスが十字架の死に向かったという深い意味もあるのです。身代わり、贖いの主イエスは、十字架に至るまで、人の身代わりになって下さった事を表しているのですね。

 34節抜粋に「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と十字架につけられての4番目の言葉があります。人の子としての主イエスが、ここで初めて、父と親しみを込めて呼ばずに、わが神と表しているのは、死に面したイエスの心が揺すられて、神との関係を疑った言葉として読む事も出来ます。確かに苦しみの中で、叫ぶ声とも思えます。

 しかし、前夜までゲツセマネの園で血の汗を流すまで祈り、父の杯を受ける決意を固めた主イエスが、ここで単に、決意がぐらついたとは思えません。やはり主イエスは最後まで、預言のことばとして、メシア預言の詩篇22編の冒頭を語られて、22編を思い浮かべるようにと苦しみの中で話されたと理解出来ます。

 詩篇22編 冒頭の一節は十字架のみことば通りに「わが神、わが神どうして私をお見捨てになったのですか」で始まりますが、締めくくりの2節、30~31節「子孫たちは主に支え 主のことが、世代を超えて語り告げられます。彼らは来て 生まれてくる民に 主の義を告げ知らせます。主が義をおこなわれたからです、。」この結末を思い出すようにと、主イエスは最後の遺言のような預言として、わたしが主の義を行なっていると、耳ある者には伝えたのだと確信するのです。心が開いておられない方にとっては、ほら、神の子と言っているイエスも、天の神から見捨てられているではないですか?と考えてしまうのです。

 最後の最後まで、主イエスの足元に一緒に居て、涙を流したのも、ガリラヤからエルサレムまで弟子たちの食事の世話をしながら上ってきた女性たちでした、復活の主に出会ったのも女性たち、今の教会を支えているのも女性たち。霊的に心が開いている女性群に頭が下がります。そうしてイエスの肉体の死と共に、神殿の幕が神の手によって裂かれるように、上から真っ二つに裂け、今まで、至聖所に入る特権は、大祭司にしか無かったのに、これからはすべての信者が、主イエスを通じて父なる神のもとに行けるようにして下さいました。

 39節「イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」ローマ人の隊長は、今まで何十人も十字架刑に立ち会って、亡くなってゆく者たちの最期を見届けてきた事でしょう。しかしイエスのように、最後まで、彼らをお赦しくださいと祈った者もいなければ、天地が闇になって全地を覆った事もありませんでした。何よりもまず、主イエスを神の子と信じたのは、異邦人であった隊長であった事も、これからの世で起こる異邦人伝道を暗示しているように思えるのです。

祈り

主の十字架に感謝致します。身代わりになって、私達を贖って下さった主イエスに心からありがとうと伝えたいです。そしてそのような主イエスを与えて下さった神に感謝致します。アーメン  

文:森 宗孝

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