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2月19日

2024年2月19日 ヨシュア記3章

『ヨルダン渡河』 

 ヨシュアとイスラエルの民はヨルダンの川岸にまでやって来ました。民は契約の箱と共に進むように命じられ、またその間隔は2千キュビト(約900m)の距離を置くようにと命じられました。次にヨシュアは民に、主によってもたらせる奇跡を前に、自らを聖別するよう命じ、 さらに契約の箱を担いだ祭司たちには、先頭を行くように命じました。遂にヨルダン川を渡る時がやって来ました。

 彼らが三日間ヨルダンの川岸に滞在している間、川の水量が増し、どの川岸も水があふれていましたが、彼らは前進しました。契約の箱を担ぐ祭司たちの足の裏がヨルダン川の水に触れる時、その水はダムのようにせき止められることを知っていたからです。

 彼らの祖先が紅海を渡った時は不意の出来事でした。後方からはエジプトの軍勢が、前方には紅海という大河が彼らの行く手を阻んでいました。絶体絶命の危機に面し、不平不満を叫ぶ民を前に、モーセが杖を上げると水はせき止められ、民は無事に紅海を渡ることが出来ました。しかし第二世代の民がヨルダン川を渡った時は事前に奇跡について知らされていました。しかし増水した川を前に不平不満を叫ぶことなく、前進出来たのは、彼らの前を先行する契約の箱にあったのではと思いました。

 イスラエルの民にとって契約の箱とは、地上における神の物理的存在の現れでした。契約の箱が彼らとともに在るということは、生ける神がともにおられるということを意味していました。アブラハムやイサク、ヤコブ、そしてモーセの時代には、火や雲といった自然現象が地上における神の臨在を表していましたが、これからは契約の箱が神の臨在を表すようになります。箱を担ぐ祭司たちがヨルダン川の乾いた地に立っている間、水はせき止められ、すべての民は無事にヨルダン川を渡り終えました。

 イスラエルの民がヨルダン川を無事に渡り終えた章を読みながら、自分自身、未知の道に踏み出すときは、キリストを象徴する契約の箱が常に先行していることを忘れてはいけないと思いました。人生における様々な出来事含め、教会の奉仕など、それがもし未知の分野であったなら、キリストという契約の箱が先行していることを覚えて、慌てて決断したり、恐れて逃げる必要もないことが分かります。キリストという契約の箱が進む時、私も進めば良いのだと思いました。主の足跡に従うとはそういうことなのだと思いました。

「あなたがたは慌てて出なくてもよい。逃げるように去らなくてもよい。主があなたの前を進み、イスラエルの神がしんがりとなられるからだ」(イザヤ52:12)

祈り:愛する天のお父さま。イスラエルの民がヨルダン川を渡るまでに40年という月日が費やされました。私自身、決断できないで長年据え置きにしている事柄があります。あなたが進まれる時、私も進みます。どうか、聖霊様による導きを示してくださいますよう、お願いします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:アイゾン直子

参照:e-Sword「King Comment、Pupil」、Jewish Virtual Library

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