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1月17日

2024年1月17日 申命記32章

 いよいよモーセの最後の説教も終わりを迎えようとしている。32章にはモーセの歌が記され、33章には祝福のことばが記されている。

 このモーセの歌の中でも、10節のみことばが心にとまる。

「主は荒野の地で、荒涼として荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。」

 「瞳のように」、神にとってこの民は、どれだけ大切な存在なのかということを表現している。大切だからこそ、この民が神を捨て、悪霊を拝むことに、心が痛み悲しむのだ。

 神の愛には、いつも悲しみが宿っている。愛することは痛み悲しむことだ。愛するからこそ、その愛が受け取られないとき、裏切られるとき痛み悲しむのだ。モーセの歌の15節以降には、その痛み悲しみが歌われている。

 

 そしてモーセは告げる。「これは、あなたにとって空虚なことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。」(47節)

 

 神のことばは、私たちにとっていのちである。まさに天から降るいのちのパンだ。もし空虚に響くことがあるとすれば、それはなぜだろうか。

 人は、自分に関心のないことばは聞き流すということをする。そして、情報が溢れている時代にあって、人はますます聞き流す術を身に着けている。私たちは無意識のうちに、情報を選別して、自分に関心のあることだけを聞くようにしているのだ。

 聖書に記されている神のことばが、私たちに空虚なことばとしてではなく、いのちのことばとして響くのは、私たちがそこに関心を持つからである。

 しかし、自分の関心事だけが、人生にとって大事なことなわけではない。関心のない事でも、実は人生に重大なこともある。

 何よりも、神は私たち一人一人に最大限の関心を持っていてくださる。だから神のことばは、すべての人にとって最も重要な意味を持っているのだ。

 願わくば、もっと神のことばに関心を持ち、いのちのことばを求めていきたい。

 

 天の父なる神さま

 どうか私たちが、神のことばに関心をもち、意味のある、いのちのあることばとして求めることができますように。聖霊によって求める心を与えてください。の助けによって、神の命令に喜びをもって聞き従う者としてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン        

                                 文:関真士

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