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2023年5月1日

2023年5月1日 テサロニケ人への手紙第一 2章

『脳と神経の関係』 アイゾン直子

 テサロニケは、パウロが第二次伝道旅行の時に訪れた町です。パウロはいつものように町にあるユダヤ人の会堂(シナゴーグ)で、キリストの福音を語っていました。そこにはユダヤ人はもちろん、神を敬う異邦人たちもいました。異邦人たちはパウロの話を聞いて信じましたが、ユダヤ人たちは抵抗しました。彼らは、世界中を騒がしているパウロの行為はカエサルに背くものだと糾弾し、それによって迫害が始まります。その結果、パウロとシラスとテモテは突然テサロニケを去ることになります(使徒17:1‐9)。主の道を歩み始めたばかりのテサロニケ教会を後に、パウロは何度も再訪を試みますが、サタンの妨げによって行くことができません(18)。そこでパウロは手紙を通して彼らを励まし、御国の福音を伝えていきます。

 パウロが会堂で福音を語る中、その教えに抵抗する者たちは、彼が勧めているものは嘲りや不純な心から出ているだましごと、またその内容は人を喜ぼせるためのもので、自分がいかに聖書に精通している学者であるかを誇りたいだけだろう、などとうそぶいていたのかもしれません。パウロはそれらをすべて否定しています(3‐6)。

 パウロは、テサロニケ教会を「兄弟たち」と呼び、また「あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています」と書いています(8)。パウロにとって彼らは非常に大切な群れであったことが示されますが、何ゆえにパウロをそこまでの気持ちにさせたのでしょうか。

 その理由は、彼らがパウロの語ることばを人間のことばとしてではなく、神のことばとして受け入れていたからではないかと思われます(13)。パウロについて悪く言う人たちもたくさんいたのです。しかし、彼の福音を聞いて信じた人たちは、聖霊によってさらなる極みに上げられ、彼の語ることばのすべてを神のことばとして聞いていたのです。しかも、3週間というわずかな滞在期間であったにも関わらず(使徒17:2)それだけの信仰が築けたのは、テサロニケ教会の設立はみこころであったと同時に、聖霊による豊かな働きがあったからではと思うのです。

 テサロニケ教会のうらやましいような出来事を思いめぐらしながら、ある牧師のたとえ話を思い出しました。彼は、聖霊は神経のようなものですと言いました。ご存じのように神経は網の目のように体の末端にまで張り巡らされていて、すべてに繋がっている器官です。同じように、信者も聖霊によって繋がっている同士だと言います。神経とはとても敏感で繊細な器官で、たとえば、家具の角で足の小指を強打した経験は皆さんあるかと思いますが、そのとき、うずくまって体全体でその痛みを共有していないでしょうか。同じように、聖霊を神経に例えるなら、共に喜びや悲しみ、痛みを分かち合う、私たちは一つという教えの意義の深さが増すのではないでしょうか。


 
 テサロニケ教会では、イエス・キリストという脳から送られたみことばが、パウロを通し、各人の内にある聖霊に伝えられた結果、あのような短期間における深い聖書理解と信仰に導かれることになったと思います。その状態が私たちの教会にも起こるなら、時間の長さに関わらず、その信仰は、私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのではと思います。

 祈り:愛する天のお父さま。聖霊を通して、あなたのみこころを伝えてくださり、教会に呼んでくださり、感謝いたします。テサロニケ教会の人たちのように、礼拝で語られるみことばを神のことばとして受け取り、そこに集まる兄弟姉妹たちと共に聖霊の響きによる喜びに満たされますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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