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2021年8月31日

2021年8月31日ディボーション

マタイの福音書27章

ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。18節

 私は以前、子どもたちのサンデースクールのために、メッセージの準備をしていた。イエス様の十字架からというテーマで、ちょうどその日、私はこのマタイ福音書を開いていた。そして、この27章18節、上記のみことばが衝撃とともに、私の目に留まった。

 イエス様が十字架に引き渡されたのは、人々の「ねたみ」ゆえだったのか!?

 その衝撃が今日、通読をしていて、今一度、私の心によみがえってきた。

 ここにある「ねたみ」とは、英語では“Envy”、日本語で言うところの羨望である。何も罪を犯していないイエス様を人々はただ羨望ゆえに、いなくなってほしい思いが掻き立てられ、総督ピラトのもとに引き渡した。それをピラトは「知っていた」とある。

 知っていたのだから、公平な裁判ができたはずだ。しかし、人々の羨望「ねたみ」は、ついには殺気に満ちて「十字架につけろ。」という叫びをも止まらなくさせ、とうとうピラトはイエス様に十字架を負わせたのだった。

 そもそも“Envy”「羨望」とは、その対象をうらやましく思うことだが、なんとこの箇所では、その対象が、神の御子イエス・キリストに向けられたのだ。

 これが人の罪の根源、本質かもしれない。なぜなら人類のはじめ、アダムとエバは「神のようになって善悪を知る者となる」(創世記3:5)という誘惑に呑み込まれて、罪が入ってしまったのだから。

 私はまことの神を神として生きるように造られた存在だ。しかし、そのまことの神をどこか傍に追いやって、自分が神のようになろうとしてしまう時、私の内側にはその罪の本質が現れてくるのだろう。

 しかし、今日の27章はそのような罪ある人間をそれでも赦すために、十字架の道を黙々と歩み続ける神の子羊イエス様の姿がある。人の仇を恩で報いるような十字架の愛を今一度想い、その注がれた愛(アガペーの愛)の深さをもっと知りたいと思わされた。

イエス様、

あなたは神の御子なのに、人々からねたまれ、十字架へと引き渡されました。あざけられ、罵られても、「でも、それでも…」と、人の罪とがを赦し、黙々と十字架へ歩まれたあなたの愛の深さを想います。その愛を感謝します。アーメン。

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