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2020年12月17日

2020年12月17日ディボーション

新約聖書:へブル書8章 

『新しい契約』

 このヘブル書は、旧約聖書に精通している読者に向けて書かれているので、異邦人である私たちには難解に感じることがある。メルキゼデク? 大祭司? モーセの幕屋? でも脚注などを利用して旧約聖書から調べていくと意味が分かってくる。参考書に頼るものいいだろう。

 旧約聖書を通して、イエスがキリスト(救い主)であることを視ていくと、その理解がぐっと深まってくるので、ぜひ、挑戦していただきたい。

8章1節では、「以上、述べてきたことの要点」としてまとめに入っている。

 イエスは、大祭司の本体である。それ以前の人間の大祭司は、「写しと影」つまりオリジナルのコピーに仕えていた者である。(5)つまり、人間の大祭司の働きは、イエスの救いの働きを指し示しているということだ。だから今や、本体である大祭司イエスが現れたので、現在の教会には大祭司と呼ばれる人はいないのだ。

 大祭司の働きとは、「捧げものと犠牲を献げる」(3)である。つまり、民の罪を贖うことがその務めである。これも、イエスが真の大祭司としてご自身を十字架に捧げてくださったことを予表したものである。

 そして8節以降、イエスによって新しい契約が結ばれたので、以前の契約は古い契約となったということが記されている。このイエスを信じて結ばれる新しい契約と古い契約との一番の違いは、「ことばが、信じる者の内にあるか、外にあるか」ということである。

 外にある時には、その律法の要求を実行できるか出来ないかは、自分の意志と力にかかっていた。しかし、ことばが内にあるならば、心の内側から湧き上がる力(それは、愛であり、喜びである)によって、律法の要求を実行するようになるということになる。つまり、「ねばならない」から、「せざるを得ない」という生き方に変わってくるということだ。

 モーセの十戒は、石の板に刻まれた。しかし今や、神の戒めは私たちの心の板に書き記されている(10節)。外側の文字に従うのではなく、心の内に刻み込まれたことばの欲するままに、ことばの通りに生きるようになるのだ。その生き方とは、互いに愛し合うという生き方である。

語られたこと:

 神の聖霊は、私の内に宿っている。神の御心は、私の内から泉のように湧き上がって、その御心を行わせてくださる。なんという恵みだろう。これからも内なる御霊に信頼して、湧き上がるものに導かれていきたい。

祈り:

 天の父なる神さま。私の心に、神の御心を刻み込んでくださったことを感謝いたします。どうぞ、内なる御霊が溢れ流れ出てください。私がその流れに従い、神の御心を行うことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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