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2020年10月15日

2020年10月15日ディボーション

1サムエル4章 


 

 この4章から7章には「神の箱」が一つのテーマとなっている。呼び方としては、他に「主の契約の箱」「主の箱」「契約の箱」などと呼ばれているが、みな同じ箱のことだ。

 この箱は、モーセがシナイ山で与えられた十戒が刻まれた石の板を入れるために造られたもので、のちにマナの入った金の壺、アロンの杖も収められた。

この箱は、神の栄光の臨在の象徴であった。モーセの幕屋、ダビデの幕屋、ソロモンの神殿は、それぞれこの箱を収めるために造られたのであって、だから幕屋、神殿は、神のお住まいであり栄光の臨在がいつも満ちていたのである。

 イスラエルの民がペリシテ人に負けている時「主の契約の箱が陣営に来たとき、全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた」(4:5)とあるのは、民にとって箱が来たことは、神が来られたと同じことだったのだ。

 しかし、その箱がペリシテ人に奪われてしまったとき、ピネハスの妻は「栄光がイスラエルから去った」(4:21)と言ったのだ。

 この箱は、この後ダビデの幕屋に収められ、ソロモンの神殿に収められ、そしてバビロン帝国によって南ユダ王国が滅亡した時から行方が分かっていない。今でもイスラエル国は、この箱を探している。

 さて、今の私たちにとって、この神の箱とは何か? そこには神と民との契約書が入っている。私たちにとっての契約、それはイエス・キリストと結んだ新しい契約である。その契約を覚える時が、聖餐式なのだ。私たちにとっての契約のしるし、それは箱ではなく、主の十字架である。

 私たちは、信仰によってイエスと新しい契約を結んだ。その信仰を目に見える形で現わすのが聖餐式なのだ。

 主の栄光の臨在(シャカイナグローリー)は、イエスの御名によって集まる中に、いつもあり続ける。

語られたこと

 私たちの集まりから、「主の栄光が去る」ことはない。聖餐式を行うたびに十字架を見上げ、主の栄光の臨在の中にあることを覚えていきたい。

祈り

天の父よ、あなたのご臨在を感謝します。あなたの栄光の臨在は、私たちから去ることは決しありません。私たちの集まりに、このシャカイナグローリーがいつも満ちていますように。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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